――系統運用が主で、市場は従であるべきだった
OCCTOは作られた。しかし「最終責任者」としてではなかった
2015年4月、電力広域的運営推進機関(OCCTO)が業務を開始した。
電力系統を全国規模で見渡し、広域的な系統整備の計画や、需給ひっ迫時の融通指示を担う機関である。いまでは電力制度の中核として機能している。
公平のために書いておくと、OCCTOは改革の「後」に思いつきで作られた組織ではない。2013年4月に閣議決定された「電力システムに関する改革方針」は、改革を三段階で進めるとし、その第一段階に広域的運営推進機関の創設を置いていた。設立根拠となる第一弾の改正電気事業法も、2013年11月に成立している。前身として、2004年に設立された電力系統利用協議会(ESCJ)もあった。
問題は時期ではない。 OCCTOに何を担わせたか だ。
OCCTOの役割は、供給計画の取りまとめ、広域系統整備の計画、需給ひっ迫時の融通指示といった「計画」と「非常時の調整」が中心である。一方、秒単位・分単位で周波数と潮流を守るリアルタイムの系統運用は、従来どおり10エリアの一般送配電事業者の中央給電指令所に残った。
つまり改革は、全国大の調整機関を用意した。しかし、「電力系統全体の物理的整合性に、誰が最終責任を負うのか」という問いを、制度の中心に正面から据えたわけではなかった。
電力系統は、物理法則で動く。 誰もが知っていることのようで、制度設計の中心にそれが据えられていたかどうかは、また別の話である。
制度設計の順序が、逆だったのではないか
電力自由化そのものを否定したいわけではない。 引っかかっているのは、制度設計の順序だ。
本来、電力制度を考えるときに最初に置くべきなのは、価格でも競争でもない。 電力系統が物理法則で動いているという前提だ。
私にはいま、電力制度の設計が、どこか矩形波を積み上げて正弦波を作ろうとしているように見える。
電力系統は、正弦波のような連続した物理現象として存在している。本来は、その連続体を理解したうえで、必要な制度を切り出していくべきだった。つまり、物理が主で、制度は従であるべきだった。
ところが現実には、競争の枠組みや市場制度を個別に積み上げ、あとから全体として成り立たせようとする構図になった。矩形波を重ねれば理論上は正弦波に近づくかもしれない。しかし、現実の電力系統では、その近似のずれは小さなロスでは済まない。
しかも、矩形波で正弦波を近似したときの誤差は、全体に均等に散らばるわけではない。矩形の段差、つまり継ぎ目の部分に集中して現れる。制度も同じだ。ずれが表面化するのは、制度と制度の境目である。

図1:「系統が主」の設計(左)と「制度が主」の設計(右)
図1:制度設計の二つのアプローチ。
左:物理法則(正弦波)を先に置き、そこから制度を切り出す「系統が主」の設計。
右:個別の市場制度(矩形波)を積み上げ、物理に近似しようとする「制度が主」の設計。
破線は理想の物理法則、実線は実際の継ぎ足し制度を示す。
矩形波を重ねて正弦波を近似しようとする右の構図が、現在の電力制度の実態に近い。
電力系統は、まず「物理」であって「市場」ではない
電力系統の運用は、人間の理念どおりには動かない。
「この送電線が空いているから、ここに流す」 「安い電源だから、全部使い切る」
そう単純にはいかない。潮流は、送る側の意思だけで一本ずつ選んで流せるものではなく、系統全体の構成やインピーダンスに従って物理的に決まる。需要と供給が崩れれば周波数が乱れ、無理をすれば広域停電にもつながりかねない。
だから、電力系統において最初に問うべきなのは「経済的に安いか」ではなく、「物理的に成立しているか」だ。
経済合理性は重要である。しかしそれは、物理的に成立する運用解の内側でのみ意味を持つ。この順序は、電力制度を設計するうえで絶対に逆転させてはならない。
遠くから見れば滑らかでも、拡大するとギザギザしている
電力需給を遠くから眺めれば、全体としては一つの滑らかな波のように見える。 だからこそ、「市場メカニズムを整えれば、自ずと全体最適に近づくはずだ」と考えたくなる。
しかし、その波を拡大すると、現実は滑らかではない。
そこには、制度設計を左右するほど鋭いギザギザがある。
- 再生可能エネルギーの出力変動
- 送電線の局所的な混雑
- 調整力の確保と不足
- 火力電源の起動・停止制約
- 周波数維持のための瞬時の調整
- 事故時の過渡的な安定度確保
遠目には一本の波でも、現場が日々相手にしているのはこのギザギザした波面だ。

図2:遠目には滑らかに見える電力需給も、拡大すると無数の局所制約があらわれる
図2:電力需給の波を拡大するとギザギザ。
上段:遠目には滑らかな正弦波に見える全体像。
下段:同じ区間を拡大すると、再エネ変動・起動停止制約・潮流制約・周波数変動・局所混雑などの鋭い変動があらわれる。
自由化の難しさの根は、このギザギザを軽く見たことにあるのではないか。 滑らかな全体最適を前提に制度を作り、実際に現れた凹凸には後から制度を継ぎ足して対応してきた。その結果、制度はどんどん複雑になっていった。
そのギザギザが表面化した例は、すでにいくつもある。
2021年1月には、寒波とLNG在庫の不足が重なり、日本卸電力取引所(JEPX)のスポット価格が一時250円/kWhを超えた。市場から電気を調達していた新電力の多くが撤退や経営難に追い込まれ、市場連動型の料金プランを選んでいた家庭には高額な請求が届いた。
2022年3月には、地震による火力発電所の停止と季節外れの寒さが重なり、東京・東北エリアで初めて需給ひっ迫警報が発令された。
どちらも、kWh(電力量)を取引する市場は動いていても、kW(供給力)とΔkW(調整力)という物理の裏付けが、市場の外側で手薄になっていたことを示している。
OCCTOに与えられなかった役割が示すもの
ここに、もう一つの重要な論点がある。
「物理法則に従う責任は、最終的に誰が負うのか」 というガバナンスの問題だ。
垂直統合の時代、各電力会社の中央給電指令所がその役割を担っていた。発電・送電・需給調整が同一の組織の中で完結していたため、物理的整合性の責任者は明確だった。
電力システム改革は、その垂直統合を崩した。発電と送配電を分離し、多数の事業者が市場を通じて電力を取引する構造に変えた。それ自体には一定の意義がある。
しかし、問題はここだ。 垂直統合を崩した瞬間、「誰が系統全体の物理的整合性に最終責任を持つのか」 という問いが宙に浮いた。
OCCTOは、この問いに答える存在として期待されてもよかった。しかし実際に与えられたのは、全国の計画を取りまとめ、非常時に融通を指示する役割であって、平常時の系統運用を一元的に最適化する権限ではない。リアルタイムの物理的整合性は10エリアの送配電事業者が守り、その外側で複数の市場が別々に動く。「最終責任者」の役割は、組織と市場の間に分散したままだ。
これは偶然ではない。改革は競争の枠組みを中心に設計され、系統の物理的ガバナンスは、既存の運用体制を前提に「調整役」を足す形で整えられた。 「誰が物理的整合性の最終責任を負うのか」は、改革の出発点に置かれた問いではなかった のである。
いまの制度は、ギザギザに後から制度を貼り付けている
容量市場。 需給調整市場。 ノンファーム型接続。 再給電方式。 そして、いま検討されている同時市場。
どれも、それぞれ必要性のある制度だ。 個別の制度を一律に批判したいわけではない。
しかし全体として眺めると、現実のギザギザに対して、後から制度を一枚ずつ貼り付けて補修してきたように見える。

図3:ギザギザの波面(系統の現実)に、自由化後に継ぎ足された補修制度の束
図3:ギザギザの波に補修制度を貼り付けていく構図。
鋭い山の上に「容量市場」「需給調整」「再給電方式」「ノンファーム」「同時市場」の各制度が後付けされ、OCCTO(2015年業務開始)は全国大の調整役として置かれたが、系統運用の最終責任者ではない。
本来、一つの統合問題として扱われていたものを分解し、あとから複数の市場やルールで縫い合わせている。
ファーム型・ノンファーム型接続という概念も、その象徴の一つだ。 本来、系統運用の内部で一体として処理されていたはずの問題——どの電源がどの条件で送電線を使えるか——が、自由化後には「接続の権利」や「出力制御の優先順位」という制度上のラベルとして前面に出てきた。
それは制度として整理する必要があるのだとしても、同時に、全体最適を制度上の分業に分解した結果として生じた複雑さでもある。
本来あるべきだったのは「系統運用を最上位に置いた自由化」だった
問題は、自由化そのものではない。 何を自由化の対象にし、何をそうでないものとして扱うかの切り分けだ。
本来あるべきだった設計順序は、こうではなかったか。
まず、電力系統の安定運用をどう実現するかを定義する。 その中で、中央的に最適化すべき領域と、競争に委ねてよい領域を明確に切り分ける。 そのうえで、発電投資、燃料調達、需要側サービスなど、物理制約に対して間接的な領域に市場原理を導入する。
そして、「物理的整合性の最終責任を誰が負うか」を制度の中核に組み込む。OCCTOのような機関は、単なる調整役ではなく、物理的整合性の責任者として位置づけておくべき存在だった。
誤解のないように付け加えると、これは「市場か、統合運用か」の二者択一ではない。
たとえば米国東部のPJMでは、系統運用者自身が市場を運営している。送電制約を織り込んだ経済負荷配分(SCED)を解き、その結果として地点ごとの価格(ノーダル価格)が決まる。電力量と予備力も同時に最適化される。ここでは市場は物理の外側に置かれていない。 系統運用の最適化計算そのものが、市場になっている 。
これは「系統運用が主で、市場は従」の一つの実装形態だ。日本で検討が進む同時市場も、この方向への修正と読むことができる。
言い換えれば、日本の問題は市場を導入したことではない。 市場を物理の外側に置いてしまったこと にある。
一言で言えば、系統運用が主で、市場は従。この原則が、設計の最上位に置かれるべきだった。
ところが現実には、競争と価格シグナルを先に設計し、物理制約への対応とガバナンスを後回しにした。その結果が、現在の複雑な補修の連続だ。
国民負担は「賦課金」だけではない
再生可能エネルギー賦課金の負担が大きい、という議論はよく目にする。 それ自体は重要な論点だ。
しかし、本当に見るべきなのは賦課金だけではない。
制度が複雑になれば、その制度を維持するためのコストがかかる。市場を増やせば、参加者も運営者も対応コストを負う。出力制御が増えれば、設備を作っても十分に使えない局面が生じる。系統制約への対応を後追いで行えば、非効率な投資や運用が積み上がる。
社会全体として評価すべきなのは、単純な電源の単価ではなく、 制度運営コスト、系統対策コスト、出力制御による損失、投資予見性の低下、そして最終的な国民負担 まで含めた総コストだ。
「市場を作ったから効率化した」とは、そう簡単に言えない。 複雑化によって何を失ったのかを、正面から検証する必要がある。
これからのべき論
ここで大事なのは、「もっと自由化するか」「昔に戻すか」という二択にしないことだ。
問うべきは、何を市場に委ね、何を物理的統合最適化の領域として守るのか、という設計の問いだ。
少なくとも、次の四つの原則は必要だと思う。
第一に、電力制度は物理法則最優先で設計すること。 市場は、物理制約を満たした範囲の内側でのみ機能させる補助手段だ。経済合理性は重要だが、それは物理的成立性の下位に置かれるべき目的関数にすぎない。
第二に、系統運用の物理的ガバナンスを制度の最上位に組み込むこと。 「誰が物理的整合性の最終責任を負うか」は、改革設計の出発点に置かれるべき問いだ。OCCTOに最終責任者としての役割が与えられなかったことが示すように、この問いを後回しにすると、制度全体のアーキテクチャが歪む。
第三に、日々・秒々の系統運用は、物理制約を内側に持つ統合最適化として設計すること。 給電運用は、事業者どうしが個別に競い合う場ではなく、安定供給を実現するための統合制御の場だ。市場を使うなら、PJMのように系統運用の最適化の中に埋め込む形で使うべきであり、物理から切り離された市場を外側に並べるべきではない。
第四に、制度評価は「価格」だけでなく「複雑化コスト」まで含めること。 料金・賦課金・再エネ比率だけでなく、制度の複雑さが現場と国民に与える負担まで評価対象に入れなければ、本当の意味での社会的コストは見えない。
おわりに
電力自由化の問題は、自由化そのものの是非だけではない。 より本質的なのは、電力という物理システムに対して、制度設計の順序を誤らなかったかという問いだ。
電力系統は、市場の理屈で動くわけではない。 まず物理法則に従って動く。その制約の内側でのみ、経済合理性や競争が意味を持つ。
本来、自由化はその順序を崩さない形で設計されるべきだった。 「誰が物理法則に最終責任を負うか」を先に決め、その枠組みの中に競争の仕組みを入れるべきだった。
ところが現実には順序が逆転し、あとから物理制約への対応を付け足す構図になった。 そのツケを、現場と国民が負い続けているように見える。
だからこれから必要なのは、「自由化か回帰か」という単純な対立ではない。
物理法則を最上位に置いたうえで、制度をどこまで組み直すのか。
その議論こそ、いま本当に求められているのではないだろうか。
(2026年9月19日改訂:OCCTOの設立経緯に関する記述を修正し、事例と海外の制度設計例を追記しました)
本稿は、電力自由化の制度設計に関する個人的な問題提起です。引用・転載の際はご連絡ください。